「関東のうなぎが背開きなのは、武士が切腹を嫌ったから」。
この有名な話を、会食のネタにしていませんか?
もっともらしく聞こえるこの説ですが、実は歴史的な矛盾があることをご存知でしょうか。
もしこの話が単なる「後付けのロマン」だとしたら、私たちが食べている関東風うなぎの「背開き」には、一体どんな意味があるのでしょうか。
この記事では、江戸時代の文献とプロの調理理論に基づき、背開きが生まれた本当の理由について解説します。
結論から申し上げます。
背開きとは、武士の精神論ではなく、とろける「蒸し」を実現するために江戸の職人が編み出した、必然の「構造エンジニアリング」なのです。
読み終える頃には、うなぎの味わい方が少し変わり、次回の会食で語りたくなる「大人のうなぎ学」が身についているはずです。
「切腹を嫌ったから」は嘘? 歴史資料が語る江戸の真実
まず、私たちが信じ込んでいる「切腹説」について、客観的なデータを用いて検証してみましょう。
一般的には「江戸は武士の都だから、腹を切ることを忌み嫌って背中から開くようになった」と言われています。
非常に分かりやすく、日本人の心情に訴えかけるストーリーです。
しかし、ここに決定的な反証が存在します。
江戸時代後期、1853年頃に書かれた風俗誌『守貞漫稿(もりさだまんこう)』です。
この文献には、当時のうなぎの裂き方について、驚くべき記述が残されています。
「江戸は腹より裂きて…」
なんと、武士の時代真っ只中である幕末の江戸において、うなぎは「腹開き」で調理されていたと記録されているのです。
もし本当に武士が切腹を嫌って背開きを強制したのであれば、この時期に腹開きが主流であるはずがありません。

つまり、「切腹を嫌ったから背開きになった」という説は、歴史的な時系列と矛盾する俗説である可能性が極めて高いのです。
では、なぜ関東では「背開き」が定着したのでしょうか。
その答えは、精神論ではなく、もっと物理的な「調理の現場」にありました。
背開きの正体は、とろける「蒸し」を実現する構造改革
ここからは、調理科学の視点で謎を解き明かします。
関東風うなぎの最大の特徴、それは「蒸し(Steaming)」の工程にあります。
関西風が「地焼き(直火焼き)」であるのに対し、関東風は「白焼き」のあとに一度「蒸し」を行い、余分な脂を落として身をふっくらとさせます。
この「蒸し」こそが、背開きを必要とした最大の要因です。
想像してみてください。
うなぎを蒸すと、身は箸で切れるほど柔らかくなります。
この時、もし「腹開き」だったらどうなるでしょうか。
腹開きの場合、背骨と身の接続が断たれ、腹側の薄い身だけで繋がっている状態になります。
この状態で蒸し器に入れ、さらに柔らかくなると、串を持ち上げた瞬間に自重に耐えきれず、腹の薄い部分から裂けて串から落ちてしまうのです。
これを現場では「身崩れ」と呼びます。
一方、「背開き」はどうでしょうか。
背中から包丁を入れると、背骨周辺の最も厚くて丈夫な筋肉が繋がった状態を維持できます。
つまり、背開きは「蒸し」という過酷な工程に耐えうる、構造的に最も頑丈な形状なのです。

老舗鰻店「うな繁」の解説によれば、この身崩れを防ぐために、関東では滑りにくい「竹串」を使い、さらに構造的に強い「背開き」を採用したとされています。
つまり、背開きは武士への忖度ではなく、「蒸しても身崩れさせない」という、職人たちの技術的な試行錯誤の末に生まれた「構造改革」だったのです。
なぜ江戸は「蒸し」たのか? 短気な江戸っ子と経済合理性
技術的な理由は判明しましたが、そもそもなぜ江戸では、手間のかかる「蒸し」を取り入れたのでしょうか。
ここには、江戸っ子の気質と経済合理性が深く関わっています。
よく言われるのが「江戸っ子は気が短い」という点です。
注文してからうなぎを捌いて焼いていたのでは、せっかちな江戸っ子を待たせてしまいます。
そこで、あらかじめ白焼きして蒸し上げておく「作り置き」のシステムが発展しました。
蒸しておけば、注文が入ったらタレをつけて炙るだけで、素早く提供できます。
さらに、ビジネス的な視点も見逃せません。
当時、江戸に流通していたうなぎの中には、皮が硬かったり、脂の乗りが悪かったりする安価なものも含まれていました。
しかし、「蒸し」の工程を経ることで、硬いうなぎも柔らかくなり、泥臭さや余分な脂も抜けて美味しく食べられるようになります。
つまり、「蒸し」は品質のバラつきを均一化し、大量の顧客を素早く捌くための優れたオペレーション戦略でもあったのです。
この「蒸し」というイノベーションを成功させるために不可欠だったピースこそが、前述の「背開き」でした。
江戸のうなぎ文化は、職人の技術と商人の知恵が融合した、極めて合理的なシステムの上に成り立っているのです。
味はどう違う? 関東風(背開き・蒸し)vs 関西風(腹開き・地焼き)
ここまで構造と歴史を見てきましたが、最終的に気になるのは「味」と「食感」の違いでしょう。
どちらが優れているということではなく、それぞれの製法が目指した「美味しさのゴール」が異なります。

- 関東風(背開き・蒸し)
- 食感: 「ふわふわ」「とろける」。蒸すことで繊維がほぐれ、口の中で消えるような食感を楽しめます。
- 味わい: 余分な脂が落ちているため、あっさりとしていて洗練された味わいです。
- おすすめ: 柔らかさを重視する方や、コース料理の締めとして楽しみたい方に。
- 関西風(腹開き・地焼き)
- 食感: 「パリッ」「サクッ」。直火で焼き上げるため、皮目は香ばしく、身には弾力があります。
- 味わい: 脂の旨味と、タレが焦げた「メイラード反応」による香ばしさがダイレクトに伝わります。
- おすすめ: うなぎ本来の野趣あふれる脂の旨味や、香ばしさを堪能したい方に。
もし、ご自宅で本格的なうなぎの食べ比べを楽しみたい場合は、産地直送のセットを取り寄せてみるのも一興です。
まとめ
本記事では、「うなぎの背開き」に隠された真実を解説してきました。
最後に要点を整理します。
- 切腹説の矛盾: 幕末の『守貞漫稿』には「江戸は腹開き」とあり、武士が忌避したという説は歴史的事実と合致しない。
- 真の理由は「蒸し」: 関東風の特徴である「蒸し」を行うと身が柔らかくなりすぎるため、構造的に強い「背開き」が不可欠だった。
- 江戸の合理性: 「蒸し」は短気な江戸っ子への素早い提供と、品質の均一化を実現するビジネス戦略でもあった。
次回の会食でうなぎを食べる際は、ぜひ「背開き」の形に注目してみてください。
それは単なる切り方ではなく、とろけるような食感を実現するために、江戸の職人たちが編み出した「構造エンジニアリング」の結晶です。
「切腹を嫌ったから」というロマンも素敵ですが、「美味しく食べるために、あえて背中から開く道を選んだ」という職人の矜持を知ることで、うな重の味わいがより一層深くなるはずです。
- 江戸前風と関西風の違いの訳 – 鰻雑学 – [蒲焼割烹 うな繁]
- 江戸の美味探訪- no.2「うなぎの蒲焼-その2-」 – [歌舞伎座]



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